毎日どこかで目にしている写真。 私たちが写真だと思っているものは、印刷やスマホの画像だとしても写真と言える。 ここで写真の定義や解釈をしようとしているわけではない。そうした作業は、学者や評論家が食い扶持として行えばよい。日常的に写真に接している立場とは必ずしも関係しない。もちろん、学問として写真史や写真論が研究されることを否定するものではない。
歴史を辿れば、ダゲレオタイプを最初の写真と捉えるのか、それともカロタイプなのかで意見は分かれる。しかし、これらの言葉自体を知らなくても困ることはない。 ところで、写真は芸術として成立するのだろうか。その話題には、今は踏み込まない。写真と画像の違いといった議論も含めて、だ。


右:カロタイプ William Henry Fox Talbot – View of the Boulevards at Paris, 1843 The Metropolitan Museum of Art, Open Access (CC0)
左:ダゲレオタイプ The Metropolitan Museum of Art, Open Access (CC0)
それはさておき、こんな話をご存知だろうか。
写真は窓辺で生まれる https://madoken.jp/series/photography-was-born-at-the-window/
簡単に言えば、歴史上の初期写真の多くは、窓から見える風景だったという話である。装置は巨大で、露光時間も長い。必然的にそうならざるを得なかった。 そこに光学や感光材料の進歩が加わり、写真技術は発達していく。だが、この段階から「写真は芸術か否か」という厄介な問題が顔を出し始めるので、話はややこしくなる。
写真技術の進歩によってカメラは小型化し、露光時間も短くなる。記録性は飛躍的に高まり、写真は大衆へと広がっていった。やがて宇宙にまで持ち出されることになる。テクノロジーの進歩に伴って写真表現が変化してきたのは、今に始まった話ではない。そう考えれば、デジタル化やミラーレスへの移行も、写真史の一ページに過ぎない。 「写真として捉える」のであれば、先端技術に依存するのも当然だし、「枯れた技術」を選ぶのも作者の意図である。
150年以上、写真は新技術によって更新され続けてきた。例えば、35mm映画用フィルムを2コマ分使用するダブルフレームの発想は、オスカー・バルナックによって小型カメラ、すなわちライカを生み、数多くの作品を可能にした。最新のテクノロジーを積極的に使うことが、写真表現を押し広げてきた証左だろう。 まとまりのないまま、いくつかの問題を棚上げにしてしまった。しかし、人がカメラを語りたくなるのはなぜか。この問いの答えは、案外単純で、写真への憧憬である。


コメント