カメラを手にファインダーを覗く。一眼レフなら、ピントグラスに映し出された像が焦点を結ぶ刹那…眼の前にあった光景は、レンズによって二次元の世界へと変換される。レンジファインダーは、仄かに光るブライトフレームが「あなたの意識はここです」と教えてくれる。
私は、写真のシステムそのものに興味を持っている。だから、写真を積極的に制作するよりも、人が撮った写真を見る方が面白いと思うことさえある。そこに残るのは、目の前の景色ではなく、作者が「何を見たか」の痕跡だからだ。
写真の不思議さはここにある。絵画とは異なり、写真は描く行為でも削る行為でもない。光が直接像を作り出す。ウィリアム・タルボットはこれを「自然の鉛筆」と呼んだ。人間が描写するのではなく、機械が極めて精密に描写するのだ。もちろん、写真には表現の余地もある。光学的特性のもとで、現象そのものが微妙に作者の意図を反映する。しかし、作者が技巧に走ると、写真本来の「現象」が霞んでしまう。
19世紀末、ピーター・ヘンリー・エマーソンは絵画の模倣を拒否した。「演出するな」、「合成するな」、「自然視覚に忠実であれ」と。写真は作るものではなく、見るものだ。これは技術論ではなく、写真に向かう態度の話だ。さらに20世紀のユージン・アッジェは極端だった。演出せず、ドラマを作らず、ただ街を記録した。資料写真としての意味も強かったが、奥行きを捉えることで、物語が自然に浮かび上がる。
この三人の写真家は、写真とは何かを求めるのではなく、三次元の世界を二次元で示すことに徹した。写真における「シニフィアン(形)」と「シニフィエ(意味)」は、時に自然に結びつく。光学的特性を使うことで、作者の意識が微かに透けて見える。タルボット、エマーソン、アッジェ。彼らに共通するのは、作家としての自己主張よりも、写真システムを感覚器官の延長として使った点だ。
写真とは、目に見える世界をただ記録する装置ではない。それは、見た者の意識や感覚をも映してしまうようだ。


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